1963(昭和38)年の7・8・11月に撮影した画像で、セミ判フィルム2本分。極端なピンボケは除いています。1箇所でまとめて撮ることはしていないので、1コマ毎に写っているものはバラバラです。
初っ端からOER3001氏の縄張りです。小田急電鉄の代々木上原~東北沢間、井の頭通りの踏切の脇からでしょう。バックは回教の礼拝所で、当然これを狙って撮っています。今はこのあたりもマンションが建並び、この建物も目立たなくなりましたが現存しています。
踏切際の公園越しに1700形、江ノ島からの快速急行のようです。手前の道が井の頭通り、どういう意図でこんな撮り方をしたのか、今となってはわかりません。
別の日で、三番町の上り勾配を九段に向かう都電。青山の10系統です。
三宅坂、右の5000形は11系統の月島行き、中央は10系統の須田町行き。デルタ線の架線がおもしろくて撮ったのでしょう。
若葉町、左奥がイギリス大使館迎賓館です。電車は3系統(品川駅前~飯田橋)の700形。軽快なスタイルで、スィングボルスター式の台車は乗り心地もよかったが、小型なので3系統専用でした。
これ以後は11月の撮影です。14系統、杉並線の2000形で、まだビューゲルが車端に付いています。新宿終点を発車したところで、もう少し右に振れば大ガードが見えるはず。
海老名大和で相鉄と小田急の出会い。相鉄が地下に潜るのはずっとあとのことです。
相模大塚、元青梅のモハ2013です。6000系は登場しているけど、数の上では2000系が主力でした。
都電杉並線の杉並車庫、杉並線はこの年の11月30日限りで廃止されていますが、これは廃止直前の頃だと思います。跡地は都バスの車庫に転用され、現存しています。
ゴムタイヤの台車に乗り、搬出直前の2500形。廃止により2000形は三田と広尾、2500形は荒川に転属しました。荒川では車体幅が狭いのが嫌われ、再度、早稲田に転属しています。
鶯谷で推進回送中のEF80形。これはまともなカメラを持つようになってもほとんど撮っていません。客車の2両目がオロネ10のようなので、急行「十和田」の回送でしょうか。
EF53が牽引しているので、高崎線の普通列車でしょう。EF53がまともに写っているのはこれくらいしかありません。
我が家(実家)の縁側、Oゲージの小田急1700形です。デハの台車はFS11、サハはTR23、動力装置の半分は父親の手を借り、床下はすけすけの状態で交博の運転会(それも最終日の15時過ぎ)に持込み、ODCのエンドレスを10分くらい走りました。その後、不備な点が目に付き、手を加えることなく廃車になっています。
初っ端からOER3001氏の縄張りです。小田急電鉄の代々木上原~東北沢間、井の頭通りの踏切の脇からでしょう。バックは回教の礼拝所で、当然これを狙って撮っています。今はこのあたりもマンションが建並び、この建物も目立たなくなりましたが現存しています。
踏切際の公園越しに1700形、江ノ島からの快速急行のようです。手前の道が井の頭通り、どういう意図でこんな撮り方をしたのか、今となってはわかりません。
別の日で、三番町の上り勾配を九段に向かう都電。青山の10系統です。
三宅坂、右の5000形は11系統の月島行き、中央は10系統の須田町行き。デルタ線の架線がおもしろくて撮ったのでしょう。
若葉町、左奥が
これ以後は11月の撮影です。14系統、杉並線の2000形で、まだビューゲルが車端に付いています。新宿終点を発車したところで、もう少し右に振れば大ガードが見えるはず。
相模大塚、元青梅のモハ2013です。6000系は登場しているけど、数の上では2000系が主力でした。
都電杉並線の杉並車庫、杉並線はこの年の11月30日限りで廃止されていますが、これは廃止直前の頃だと思います。跡地は都バスの車庫に転用され、現存しています。
ゴムタイヤの台車に乗り、搬出直前の2500形。廃止により2000形は三田と広尾、2500形は荒川に転属しました。荒川では車体幅が狭いのが嫌われ、再度、早稲田に転属しています。
鶯谷で推進回送中のEF80形。これはまともなカメラを持つようになってもほとんど撮っていません。客車の2両目がオロネ10のようなので、急行「十和田」の回送でしょうか。
EF53が牽引しているので、高崎線の普通列車でしょう。EF53がまともに写っているのはこれくらいしかありません。
我が家(実家)の縁側、Oゲージの小田急1700形です。デハの台車はFS11、サハはTR23、動力装置の半分は父親の手を借り、床下はすけすけの状態で交博の運転会(それも最終日の15時過ぎ)に持込み、ODCのエンドレスを10分くらい走りました。その後、不備な点が目に付き、手を加えることなく廃車になっています。