そろそろ正月気分も抜けてきたところで、ブログも真面目な「鉄」に戻ります。今回のテーマはネット配信の乗りものニュースで12月19日にアップされた記事のダイジェストになります。
これは1966(昭和41)年4月23日、開業初日のモノレール線向ヶ丘遊園駅です。時刻は昼頃で切符売り場の前に群がっているのはほとんどが会社関係者でしょう。手前に椅子やテントが片付けられているから、開業記念の式典が終わったあとなのかも知れません。
切符売り場。運賃は100円で、鉄道の初乗り20円に比べるとかなり割高です。運転は9:30~17:30まで、17時台を除いて10分間隔ですが、半数は不定期運転のようです。
日本国内のモノレールとしては5番目の開業となり、鉄のレール上を鉄車輪で走行するロッキード式が初めて採用されました。車両はデハ500形で、向ヶ丘遊園正門寄り(写真左)から502-501。車体長13570mm、自重16.2トン、定員120人、車輪径610mm、ホィールベース2030mm、軌間1273mmは左右の案内レール頭部の間隔を示しています。電気方式は直流600V、各車に75kWのモーターを備えており、これはかなりの過剰性能といえます。
向ヶ丘遊園駅を出るとすぐに左折し、府中街道、二ケ領用水に沿って走ります。かつては用水の土手部分に蓄電池式機関車による豆電車が走っていましたが、府中街道のバイパスが線路を横切ることになるため、平面交差を避けてモノレールに置き換えられました。開業当初、まだこの一帯は多摩川梨の産地で、車両の下あたり、家並みが途切れた所に梨畑が見えています。
豆電車は府中街道を隔てた所が終点でしたが、モノレールは道路をオーバークロスして遊園地の敷地内に乗入れます。
向ヶ丘遊園正門までの営業キロは1.1km、最少カーブ半径40m、最急勾配54‰、最高速度40km/hとなっています。この建屋の下に検修設備がありました。
デハ502の車内。座席は各車先頭向きのクロスシート、窓はすべて固定、天窓付きで明るいのですが、ファンデリアだけでは夏の暑さに耐えきれず、後に天窓は埋められ、妻窓は開閉式に改造されます。
午後の車内はガラ空きでした。
ここまでの写真は「鉄道ファン」誌に投稿したところ採用され、商業誌デビューとなりました。これに味を占めて原稿書きが本業になったわけではありません。
開業から31年目の1997(平成9)年10月、原稿書きが本業になり、鉄道ダイヤ情報のモノレール特集で取材の機会がありました。502の車内で天窓が埋められ、妻窓が開閉式になっています。
ドア脇の座席下に収納されている非常脱出用のシュート。
運転台、抵抗制御、電磁直通ブレーキだから、主要機器は鉄道線車両と同じ。
車両のメーカーは川崎航空機。1961年に同社のほか川崎車輌、日本電気、佐藤工業、西松建設などの出資で日本ロッキード・モノレール(株)が設立され、翌年に試験車両が完成。小田急モノレールはこれを営業用に改造しています。
走行部分、案内輪が両側からレールの頭部を挟み込んでいます。
案内輪の奥がモーター、直角カルダン式です。レールの頭を挟む非常用のブレーキも見えています。
集電装置(赤丸)は地下鉄と同じ集電靴です。
運賃は廃止になるまで100円でした。列車は1時間あたり4本になっています。
向ヶ丘遊園の切符売り場は、鉄道線の駅舎を模したデザインになっていました。
向ヶ丘遊園駅前もだいぶ賑やかになっています。
道路も用水も拡幅されています。梨畑はもうありません。飛び散る鉄粉の錆でコンクリートの桁が茶色くなっています。
この取材から3年後、台車に亀裂が見つかり2000年2月13日から運転休止。そのまま復活せず、2001年2月1日付けで廃止となりました。特殊な車両で部品の補充も難しいというのが表向きの理由ですが、遊園地の来園者も減り続けているので、このあたりが潮時というのが本音と思われます。なお、向ヶ丘遊園も2002年3月31日限りで閉園となっています。
廃止後の2001年3月24・25日にさよなら見学会が行われました。長蛇の列はこれを記念して発売されたパスネットがお目当てのようです。
いろいろ特典もあったようです。
車両には喜多見検車区特製のヘッドマークを取付け。車内も見学できました。運転台回りも窓を開閉式に改造しているのがわかります。
車両妻面にはレアものの銘板も付いていました。
1966年は5月2日に大船のドリームランドモノレール、同月17日には同じロッキード式の姫路モノレールが開業しています。この頃までが日本のモノレールの黎明期といえますが、現在も存続しているのは東京モノレールだけです。
これは1966(昭和41)年4月23日、開業初日のモノレール線向ヶ丘遊園駅です。時刻は昼頃で切符売り場の前に群がっているのはほとんどが会社関係者でしょう。手前に椅子やテントが片付けられているから、開業記念の式典が終わったあとなのかも知れません。
切符売り場。運賃は100円で、鉄道の初乗り20円に比べるとかなり割高です。運転は9:30~17:30まで、17時台を除いて10分間隔ですが、半数は不定期運転のようです。
日本国内のモノレールとしては5番目の開業となり、鉄のレール上を鉄車輪で走行するロッキード式が初めて採用されました。車両はデハ500形で、向ヶ丘遊園正門寄り(写真左)から502-501。車体長13570mm、自重16.2トン、定員120人、車輪径610mm、ホィールベース2030mm、軌間1273mmは左右の案内レール頭部の間隔を示しています。電気方式は直流600V、各車に75kWのモーターを備えており、これはかなりの過剰性能といえます。
向ヶ丘遊園駅を出るとすぐに左折し、府中街道、二ケ領用水に沿って走ります。かつては用水の土手部分に蓄電池式機関車による豆電車が走っていましたが、府中街道のバイパスが線路を横切ることになるため、平面交差を避けてモノレールに置き換えられました。開業当初、まだこの一帯は多摩川梨の産地で、車両の下あたり、家並みが途切れた所に梨畑が見えています。
豆電車は府中街道を隔てた所が終点でしたが、モノレールは道路をオーバークロスして遊園地の敷地内に乗入れます。
向ヶ丘遊園正門までの営業キロは1.1km、最少カーブ半径40m、最急勾配54‰、最高速度40km/hとなっています。この建屋の下に検修設備がありました。
デハ502の車内。座席は各車先頭向きのクロスシート、窓はすべて固定、天窓付きで明るいのですが、ファンデリアだけでは夏の暑さに耐えきれず、後に天窓は埋められ、妻窓は開閉式に改造されます。
午後の車内はガラ空きでした。
ここまでの写真は「鉄道ファン」誌に投稿したところ採用され、商業誌デビューとなりました。これに味を占めて原稿書きが本業になったわけではありません。
開業から31年目の1997(平成9)年10月、原稿書きが本業になり、鉄道ダイヤ情報のモノレール特集で取材の機会がありました。502の車内で天窓が埋められ、妻窓が開閉式になっています。
ドア脇の座席下に収納されている非常脱出用のシュート。
運転台、抵抗制御、電磁直通ブレーキだから、主要機器は鉄道線車両と同じ。
車両のメーカーは川崎航空機。1961年に同社のほか川崎車輌、日本電気、佐藤工業、西松建設などの出資で日本ロッキード・モノレール(株)が設立され、翌年に試験車両が完成。小田急モノレールはこれを営業用に改造しています。
走行部分、案内輪が両側からレールの頭部を挟み込んでいます。
案内輪の奥がモーター、直角カルダン式です。レールの頭を挟む非常用のブレーキも見えています。
集電装置(赤丸)は地下鉄と同じ集電靴です。
運賃は廃止になるまで100円でした。列車は1時間あたり4本になっています。
向ヶ丘遊園の切符売り場は、鉄道線の駅舎を模したデザインになっていました。
向ヶ丘遊園駅前もだいぶ賑やかになっています。
道路も用水も拡幅されています。梨畑はもうありません。飛び散る鉄粉の錆でコンクリートの桁が茶色くなっています。
この取材から3年後、台車に亀裂が見つかり2000年2月13日から運転休止。そのまま復活せず、2001年2月1日付けで廃止となりました。特殊な車両で部品の補充も難しいというのが表向きの理由ですが、遊園地の来園者も減り続けているので、このあたりが潮時というのが本音と思われます。なお、向ヶ丘遊園も2002年3月31日限りで閉園となっています。
廃止後の2001年3月24・25日にさよなら見学会が行われました。長蛇の列はこれを記念して発売されたパスネットがお目当てのようです。
いろいろ特典もあったようです。
車両には喜多見検車区特製のヘッドマークを取付け。車内も見学できました。運転台回りも窓を開閉式に改造しているのがわかります。
車両妻面にはレアものの銘板も付いていました。
1966年は5月2日に大船のドリームランドモノレール、同月17日には同じロッキード式の姫路モノレールが開業しています。この頃までが日本のモノレールの黎明期といえますが、現在も存続しているのは東京モノレールだけです。