南海電鉄
どこまで引っ張れば気が済むんだという南海ネタですが、振り返ってみればまともな電車の写真がほとんど出ていません。今回は「鉄分多め」の看板に恥じないよう、電車の写真で固めました。
南海電鉄のなんば駅。建築学的な分類はわかりませんが、なかなか歴史を感じさせる建物です。ただ、北向きだし駅前広場がそんなに奥行きがなく、写真は撮りにくい。
出入り口の頭上には1972年まで社章になっていた羽車マークのレリーフがあります。これにカメラを向けているのは私だけで、通勤の人達は上を見ないから気付かないでしょう。
ホームに上がります。7:17、泉北ライナーが到着していました。サザンプレミアムの12000系と同じですが泉北高速鉄道の所有車で、車号が20番代になっています。和泉中央に戻ってもう一稼ぎするのだろうけど、下りは回送同然です。
廃車が進んでいる6000系も、まだトップナンバーが健在です。
最新の8300系の車内、8000系とそんなに変わらないけど、椅子はかなりふっくらしています。1人分ずつ色分けしているのは、関西の私鉄では珍しい。ここまでは11月4日に撮影、以下は5日に撮影しています。
今宮戎で南海線の上りを一網打尽にします。9000系4×2の8連。
じわじわと廃車が進んでいる7100系。
1000系、この形式から南海線、高野線共用になりました。車端部がクロスシートで、2000系とともに一番金がかかっているのがわかります。
泉北高速の5000系、帯の色は東武の8000系と同じじゃないか。
南海の11000系だけども泉北ライナー色になって出稼ぎしています。
泉北高速から移籍してきた3000系。よく見れば前面窓上に泉北のマークやナンバーを撤去した跡がわかりますが、ボケッと見ていれば高野線の6200系と変わらない。
1000系2×2の4連。8:11だからラッシュのピークだけど、普通はこんなんで間に合っています。
ベストセラー(になっているらしい)の「すきま暮らしすみっコぐらし」とタイアップしたラピート。
30000系の「りんかん」、まだ折返して「こうや」には早いので、一旦入庫になるのかも知れません。
だいぶ数が増えてきた8300系。朝練はここまでとします。
汐見橋線から戻り、帰りの新幹線までには少し間があるので、粉浜で撮影しました。8300系の2連は和歌山寄りのモハが2個パンでなかなか勇ましい。運転室扉にかかる帯を省略しているのは手抜きだなぁ。後4両は8000系なので、車体断面や細かい造りの違いがわかるかな。
こちらが8000系、総合製作所製なので車体の造りはE233系とほぼ同じです。
特急サザンの10000系、電磁直通ブレーキなので併結相手は7100系に限られます。
朝のラッシュが終わると出てくる2000系。高野線で失業した車両の救済だけど、オールMだから結構電気食うんじゃないだろうか。
サザンプレミアムの12000系は2本だけで、増備の気配がない。だいぶ雲も出てきたので、撮影はこれまでとしました。
南海電鉄のなんば駅。建築学的な分類はわかりませんが、なかなか歴史を感じさせる建物です。ただ、北向きだし駅前広場がそんなに奥行きがなく、写真は撮りにくい。
出入り口の頭上には1972年まで社章になっていた羽車マークのレリーフがあります。これにカメラを向けているのは私だけで、通勤の人達は上を見ないから気付かないでしょう。
ホームに上がります。7:17、泉北ライナーが到着していました。サザンプレミアムの12000系と同じですが泉北高速鉄道の所有車で、車号が20番代になっています。和泉中央に戻ってもう一稼ぎするのだろうけど、下りは回送同然です。
廃車が進んでいる6000系も、まだトップナンバーが健在です。
最新の8300系の車内、8000系とそんなに変わらないけど、椅子はかなりふっくらしています。1人分ずつ色分けしているのは、関西の私鉄では珍しい。ここまでは11月4日に撮影、以下は5日に撮影しています。
今宮戎で南海線の上りを一網打尽にします。9000系4×2の8連。
じわじわと廃車が進んでいる7100系。
1000系、この形式から南海線、高野線共用になりました。車端部がクロスシートで、2000系とともに一番金がかかっているのがわかります。
泉北高速の5000系、帯の色は東武の8000系と同じじゃないか。
南海の11000系だけども泉北ライナー色になって出稼ぎしています。
泉北高速から移籍してきた3000系。よく見れば前面窓上に泉北のマークやナンバーを撤去した跡がわかりますが、ボケッと見ていれば高野線の6200系と変わらない。
1000系2×2の4連。8:11だからラッシュのピークだけど、普通はこんなんで間に合っています。
ベストセラー(になっているらしい)の「
30000系の「りんかん」、まだ折返して「こうや」には早いので、一旦入庫になるのかも知れません。
だいぶ数が増えてきた8300系。朝練はここまでとします。
汐見橋線から戻り、帰りの新幹線までには少し間があるので、粉浜で撮影しました。8300系の2連は和歌山寄りのモハが2個パンでなかなか勇ましい。運転室扉にかかる帯を省略しているのは手抜きだなぁ。後4両は8000系なので、車体断面や細かい造りの違いがわかるかな。
こちらが8000系、総合製作所製なので車体の造りはE233系とほぼ同じです。
特急サザンの10000系、電磁直通ブレーキなので併結相手は7100系に限られます。
朝のラッシュが終わると出てくる2000系。高野線で失業した車両の救済だけど、オールMだから結構電気食うんじゃないだろうか。
サザンプレミアムの12000系は2本だけで、増備の気配がない。だいぶ雲も出てきたので、撮影はこれまでとしました。
だいぶ鼻についてきたかとも思いますが、ネタがあるんでまだ続けます。
平野の商店街を歩いたあとは地下鉄を谷町線、御堂筋線、堺筋線と乗継いで天下茶屋に戻ってきました。次の目的地は汐見橋線ですが、地図を見ると天下茶屋から真っ直ぐ西に歩けば西天下茶屋に行けそうです。写真は東口で、線路を潜って天下茶屋駅筋を西に歩きます。
そこそこ人通りはあるけど、商店街というほどの賑やかさはありません。この店も営業はしていないようです。
10分足らずで西天下茶屋に到着。写真の奥が汐見橋方面で、駅舎は右側ホームの端にあります。
踏切を渡った先には銀座商店街、といってもアーケードは20mくらいと短い。手前の焼肉屋の看板、値段半分で量も半分だったら安くないだろうが。
下り線(岸里玉出方面)側にある駅舎。その昔は正面の庇の上はステンドグラスだったのではないかな。諏訪ノ森あたりとの共通点も感じられます。
駅員は配置されていません。
上り線側にも改札口があります。こちらはあとからできたのでしょう。
昔はこちらのホームに改札口はなく、右側の駅舎から構内踏切で出入りしていたのだと思われます。
岸里玉出行きが数人の客を乗せて発車。これが戻ってくるまで待ちます。
ひと駅乗って津守で下車。左の建物は西成高校、その手前に西成公園、浄水場、下水処理場などがあります。公園を突き抜けた先は木津川なので、こちら側に住宅は少なく、人通りも疎らです。
津守の駅舎。通路の雨除けになっているだけで、中はがらんどうです。
線路の西側(汐見橋に向かって左側)の道は途中で離れてしまうので、東側に移って進みます。高速道路(西大阪線)を潜ったからそろそろ木津川駅のはずですが、道路にはなんの表示もありません。この奥の踏切を渡った左に木津川駅があるなんて、大阪市民だって十中八九は気付かないだろうな。
踏切から見た木津川駅。
ほぼ同じ位置で1998年2月の撮影。かつては木津川の水運と連携した貨物扱いがあり、右に貨物ホームの跡が残っています。左の煙突は北津守温泉とあるから銭湯ですね。
駅舎、1998年には自転車が何台か置かれていましたが、今は人の気配がほとんど感じられません。
振り返ればこんな感じで荒涼とした風景が展開しています。しかし、電車が来るのを待っているうちに自転車に乗った男子高校生が一人、画面奥に向かって行きました。
ここも当然、無人駅です。
岸里玉出行きが到着。
1998年、ほぼ同じ位置からで、この頃は線路際に家があります。
たまたまなのか、1人乗り込んで発車。
さらに歩いて芦原町まで来ました。街中に戻ってきた雰囲気が感じられます。この手前から汐見橋までは東側に高速道路の堺線が並行しています。
駅舎は東側にあります。自転車が置かれているから、ある程度の利用客はあるのでしょう。
ここれは2014年8月の撮影。暑くてヘロヘロになっていました。
汐見橋行きが到着、女子高生が数人降りてきました。西成高校の学生かな。
戻って来るのを待ち構えます。オーバークロスする大阪環状線は221系が通過。反対側のホームから撮れば順光なのですが、そうするとこの電車に乗れません。
汐見橋は今回パスしたので、昔の写真をご覧ください。2014年7月撮影。今もほとんど変わっていないはずです。
2000年3月、改札口の上には昭和30年頃の南海沿線観光案内図が残っていました。脇の時刻表を見ると、電車は1時間に3本運転されています。
2014年7月、案内図はだいぶ朽ち果ててしまい、この数年後に撤去されました。電車は1時間に2本に減らされています。
岸里玉出行きに乗って前面展望です。木津川。
津守、高校生が10数人乗り込んで来ました。
西天下茶屋。
岸里玉出の手前で単線になります。
南海線を上り急行が通過。
短いホームに到着。岸里玉出~汐見橋間は高野鉄道が建設した区間であり、現在も線路区分上は高野線となっています。しかし、岸里玉出付近の高架化によって高野線とは切離されたので、汐見橋線と呼んでも差し支えないでしょう。都会の盲腸線となった汐見橋線を存続させていたのは、なにわ筋線の計画がちらついていたからという見方もあります。そのなにわ筋線は本線の新今宮から接続というルートが正式に決定したので、汐見橋線が大化けする可能性はなくなりました。なにわ筋線が完成した頃、果たして汐見橋線は存続しているのでしょうか。
平野の商店街を歩いたあとは地下鉄を谷町線、御堂筋線、堺筋線と乗継いで天下茶屋に戻ってきました。次の目的地は汐見橋線ですが、地図を見ると天下茶屋から真っ直ぐ西に歩けば西天下茶屋に行けそうです。写真は東口で、線路を潜って天下茶屋駅筋を西に歩きます。
そこそこ人通りはあるけど、商店街というほどの賑やかさはありません。この店も営業はしていないようです。
10分足らずで西天下茶屋に到着。写真の奥が汐見橋方面で、駅舎は右側ホームの端にあります。
踏切を渡った先には銀座商店街、といってもアーケードは20mくらいと短い。手前の焼肉屋の看板、値段半分で量も半分だったら安くないだろうが。
下り線(岸里玉出方面)側にある駅舎。その昔は正面の庇の上はステンドグラスだったのではないかな。諏訪ノ森あたりとの共通点も感じられます。
駅員は配置されていません。
上り線側にも改札口があります。こちらはあとからできたのでしょう。
昔はこちらのホームに改札口はなく、右側の駅舎から構内踏切で出入りしていたのだと思われます。
岸里玉出行きが数人の客を乗せて発車。これが戻ってくるまで待ちます。
ひと駅乗って津守で下車。左の建物は西成高校、その手前に西成公園、浄水場、下水処理場などがあります。公園を突き抜けた先は木津川なので、こちら側に住宅は少なく、人通りも疎らです。
津守の駅舎。通路の雨除けになっているだけで、中はがらんどうです。
線路の西側(汐見橋に向かって左側)の道は途中で離れてしまうので、東側に移って進みます。高速道路(西大阪線)を潜ったからそろそろ木津川駅のはずですが、道路にはなんの表示もありません。この奥の踏切を渡った左に木津川駅があるなんて、大阪市民だって十中八九は気付かないだろうな。
踏切から見た木津川駅。
ほぼ同じ位置で1998年2月の撮影。かつては木津川の水運と連携した貨物扱いがあり、右に貨物ホームの跡が残っています。左の煙突は北津守温泉とあるから銭湯ですね。
駅舎、1998年には自転車が何台か置かれていましたが、今は人の気配がほとんど感じられません。
振り返ればこんな感じで荒涼とした風景が展開しています。しかし、電車が来るのを待っているうちに自転車に乗った男子高校生が一人、画面奥に向かって行きました。
ここも当然、無人駅です。
岸里玉出行きが到着。
1998年、ほぼ同じ位置からで、この頃は線路際に家があります。
たまたまなのか、1人乗り込んで発車。
さらに歩いて芦原町まで来ました。街中に戻ってきた雰囲気が感じられます。この手前から汐見橋までは東側に高速道路の堺線が並行しています。
駅舎は東側にあります。自転車が置かれているから、ある程度の利用客はあるのでしょう。
ここれは2014年8月の撮影。暑くてヘロヘロになっていました。
汐見橋行きが到着、女子高生が数人降りてきました。西成高校の学生かな。
戻って来るのを待ち構えます。オーバークロスする大阪環状線は221系が通過。反対側のホームから撮れば順光なのですが、そうするとこの電車に乗れません。
汐見橋は今回パスしたので、昔の写真をご覧ください。2014年7月撮影。今もほとんど変わっていないはずです。
2000年3月、改札口の上には昭和30年頃の南海沿線観光案内図が残っていました。脇の時刻表を見ると、電車は1時間に3本運転されています。
2014年7月、案内図はだいぶ朽ち果ててしまい、この数年後に撤去されました。電車は1時間に2本に減らされています。
岸里玉出行きに乗って前面展望です。木津川。
津守、高校生が10数人乗り込んで来ました。
西天下茶屋。
岸里玉出の手前で単線になります。
南海線を上り急行が通過。
短いホームに到着。岸里玉出~汐見橋間は高野鉄道が建設した区間であり、現在も線路区分上は高野線となっています。しかし、岸里玉出付近の高架化によって高野線とは切離されたので、汐見橋線と呼んでも差し支えないでしょう。都会の盲腸線となった汐見橋線を存続させていたのは、なにわ筋線の計画がちらついていたからという見方もあります。そのなにわ筋線は本線の新今宮から接続というルートが正式に決定したので、汐見橋線が大化けする可能性はなくなりました。なにわ筋線が完成した頃、果たして汐見橋線は存続しているのでしょうか。
2日目(5日)、朝飯前に今宮戎で少し撮影してから難波の南海そばで朝食。JRで天王寺に出て天王寺支線の線路跡を確認します。2015年にレールが撤去されてからは大きな変化はありません。このあとは平野線の廃線跡を辿るため、地下鉄谷町線で平野に向かいます。
1979(昭和54)年10月の天王寺駅前。手前のモ505は平野行きです。この時代はまだ南海の軌道線で、1年後の1980年12月1日に上町線と阪堺線は阪堺電気軌道として分離、平野線は11月26日限りで廃止となり、翌27日に地下鉄谷町線の天王寺~八尾南間が開業します。
ここは西平野電停があった所。阿倍野からここまで平野線は阪神高速松原線の高架下を走っていました。厳密にいえば線路敷に高架の脚を建てたわけです。高速道路はカーブして南に、平野線は東に直進します。
上の写真の木立の下に見えているのが、平野線の路線図を描いたモニュメント。飛田~阿倍野以外は専用軌道で、路面電車にしては駅間が長く、表定速度も高かったようです。
線路跡は背戸口公園になって内環状線まで続いています。
公園が終わったら内環状線(479号線)を横断。この道路を北(写真の右方向)に行けばJR関西本線の平野に出ます。
内環状線を渡って100mくらいの所から西平野方向を見ています。信号の奥が背戸口公園。左に続いているビルは線路跡に建っています。
上の写真に位置から振り返るとすぐ、線路跡を利用した遊歩道が始まります。
電車道らしい雰囲気です。実際の線路は複線でした。
途中の広場には平野の駅舎をイメージしたモニュメントがあり、奥の壁面にはモ205形のイラストと由来を書いたプレートがあります。このイラストは2代目で、初代はほぼサイドビュー、もっと黒っぽい色調でした。
ここ々が終点。
平野南海商店街の道路から見た所。
1979年1月に撮影。フィルムの最後のコマで、平野線の画像はこの1枚だけです。天王寺駅前あたりから乗ってきたはずですが、途中の記憶がほとんどありません。
構内配線はこうなっていました。幅が狭いところをうまく使っています。奥が1番線だったかな。ホームで恵美須町行きと天王寺駅前行きを分けていたようです。
駅前は少し寂れた平野東筋商店街が南北に続いていて、街路灯のプレートには今でも南海の文字が残っています。
平野線が廃止されてから41年になるから、地元でも実際に乗ったという経験があるのは60代以上でしょう。それなのにいまだ南海の文字が残っているのはよほど南海に恩義を感じているのか、それとも書き換える手間を惜しんでいる(その金もない)だけなのか。
この通りの途中から東に延びる平野中央本通商店街は年代物の建物があったりで、街歩きファンには見逃せません。私も少し歩いて見ましたか、それは稿を改めて紹介します。
1979(昭和54)年10月の天王寺駅前。手前のモ505は平野行きです。この時代はまだ南海の軌道線で、1年後の1980年12月1日に上町線と阪堺線は阪堺電気軌道として分離、平野線は11月26日限りで廃止となり、翌27日に地下鉄谷町線の天王寺~八尾南間が開業します。
ここは西平野電停があった所。阿倍野からここまで平野線は阪神高速松原線の高架下を走っていました。厳密にいえば線路敷に高架の脚を建てたわけです。高速道路はカーブして南に、平野線は東に直進します。
上の写真の木立の下に見えているのが、平野線の路線図を描いたモニュメント。飛田~阿倍野以外は専用軌道で、路面電車にしては駅間が長く、表定速度も高かったようです。
線路跡は背戸口公園になって内環状線まで続いています。
公園が終わったら内環状線(479号線)を横断。この道路を北(写真の右方向)に行けばJR関西本線の平野に出ます。
内環状線を渡って100mくらいの所から西平野方向を見ています。信号の奥が背戸口公園。左に続いているビルは線路跡に建っています。
上の写真に位置から振り返るとすぐ、線路跡を利用した遊歩道が始まります。
電車道らしい雰囲気です。実際の線路は複線でした。
途中の広場には平野の駅舎をイメージしたモニュメントがあり、奥の壁面にはモ205形のイラストと由来を書いたプレートがあります。このイラストは2代目で、初代はほぼサイドビュー、もっと黒っぽい色調でした。
ここ々が終点。
平野南海商店街の道路から見た所。
1979年1月に撮影。フィルムの最後のコマで、平野線の画像はこの1枚だけです。天王寺駅前あたりから乗ってきたはずですが、途中の記憶がほとんどありません。
構内配線はこうなっていました。幅が狭いところをうまく使っています。奥が1番線だったかな。ホームで恵美須町行きと天王寺駅前行きを分けていたようです。
駅前は少し寂れた平野東筋商店街が南北に続いていて、街路灯のプレートには今でも南海の文字が残っています。
平野線が廃止されてから41年になるから、地元でも実際に乗ったという経験があるのは60代以上でしょう。それなのにいまだ南海の文字が残っているのはよほど南海に恩義を感じているのか、それとも書き換える手間を惜しんでいる(その金もない)だけなのか。
この通りの途中から東に延びる平野中央本通商店街は年代物の建物があったりで、街歩きファンには見逃せません。私も少し歩いて見ましたか、それは稿を改めて紹介します。
久しぶりに関西弁が聞きたくて、というわけではないけど、昨年2月以来ご無沙汰の関西に行ってきました。
往路はバスタ新宿23:20発のグランドリーム15号。高速バスに乗るのは2019年9月以来で、予約の高速バスネットの会員登録が自然消滅していました。
10月28日に高速バスのダイヤ改正があり、東京~京阪神間の便はすべて新東名経由に変更、中央道経由の中央ドリーム号は廃止されました。これにより所要時間は約30分短縮され、途中の乗務員交代は「道の駅もっくる新城」に変更されています。写真は三ヶ日インターを降りた所にあった乗務員交代所。
バスは3割くらいの乗車率で予定時刻の7:01より15分ほど早着。眠気覚ましに定番の萩ノ茶屋で構えます。8時前で朝ラッシュのピークだけど、南海線は天下茶屋と新今宮での乗換えが多く、新今宮を過ぎれば混んでいるのは先頭と2両目くらいまでです。この時間でもまだ太陽が低くて側面はテカるし前面は潰れ気味。架線がえらく目立ちます。
これは2014年7月、今宮戎での撮影。いままでは夏の撮影が多かったので、季節による太陽の高さの違いを思い知らされました。
ラッシュを過ぎれば普通は1時間に4本、これに空港急行4本、ラピートとサザンが各2本の12本ですが、現在、ラピートは1時間ヘッドに減便されています。
本日の目的地は和歌山港線なので、適当に寄り道しながら南下します。住ノ江検車区ではラピートが暇を持て余していました。
高架になった羽衣。ここは高師浜線の分岐駅です。
その高師浜線は高架工事のため2年ほど運休。代行バスが運転されています。
高架の下にバスがいました。
電車のダイヤに合わせ、ほぼ20分ごとに運転されています。途中駅の伽羅橋を見てこようかと思ったけど、かったるそうなのでやめておきます。
高師浜線用だったホームは撤去作業中です。
高架の上りホームは高師浜線用のスペースが確保されています。しかし、2年間もバス代行で用が足りるなら、本当に線路が必要なのだろうか。まぁ、部外者がどうこういう立場ではありません。
普通で和歌山市まで乗りとおしました。時刻は12時、13:05発の和歌山港行きに乗るつもりだったけど、1時間も待つくらいなら歩いた方が早そうです。和歌山市~和歌山港間は2.8kmだから、廃止になった駅の跡を辿りながらでも1時間もあれば行けるでしょう。
和歌山港線は途中に久保町、築地橋、築港町の3駅がありましたが、2005年11月に廃止されています。久保町は紀ノ川大橋の下で、ホーム石積みの一部と柵が残っています。ここまでの0.8kmが南海電鉄の線路で、その先は和歌山県が第3種鉄道事業者として所有。南海電鉄が第2種鉄道事業者となっています。なのでここが社県分界点となるのですが、あたり一帯に目をこらしても分界を示す標識は見当たりません。
前の写真の右側が人道橋で、その柵越しに万歳したところ。左の水路は紀ノ川に並行している市堀川。鉄ピクの南海特集(2008年8月号)に載っていた写真もこのアングルです。しかし、電車が来るまで30分以上も待っているのは時間の無駄。諦めて先に進みます。
水軒川の支流?が市堀川に合流する所で、これの左で川を渡る道路橋が築地橋。駅は鉄橋を渡った向こうのようです。
鉄橋を渡り、カーブが終わるあたりにホーム石積みの一部と柵が残っていました。
だいぶホームらしい雰囲気が残っています。
そろそろ電車が来る頃、築地橋の上から待ち構えます。ここでサザンを撮りたいところだけど、明るい時間に走るサザンは10時台しかありません。
さらに歩くと線路端にこんな立て札がありました。名鉄の専売特許ではなかった。しかし、もう期限を過ぎています。
築港町は元の和歌山港だったそうで、過去の記事を読んでも位置がよくわかりません。当てずっぽうで開けた所から1枚撮ってみました。
水軒川を渡る港橋。道路は線路の下を潜り、そのまま行けば和歌山港駅前に出ます。
まず目に入るのがフェリーターミナルの建物。港は道路を隔てた右にあり、専用通路で結ばれています。フェリーは南海電鉄の系列会社なのに、この建物は駅と連絡していません。
駅入り口、なんでわざわざ目立たず、入りにくい位置になっているんだろうか。
行き止まりの島式ホームで、こちらの1番線はさらに水軒まで延びていました。
先ほどの電車が戻って来ました。13時台だけ2往復あるのです。
「めでたいでんしゃ」だそうで、吊り手が魚の形になっています。フェリーからの乗継ぎ客はなく、私のほかには「鉄」っぽいのと清掃員らしいオバサンの計3人でした。
ここで水軒の写真を特別公開。2000年1月、仕事絡みで9時台の1往復に乗るため、和歌山行きの夜行バスを利用しました。
左が海側で道路が並行しています。なんで道路に近い方にホームを作らなかったのだろうか。
これはトイレではない。発時刻や運賃表が掲示されています。
ベンチが2脚ありました。
駅名標、まだ駅ナンバーは導入されていない。この時の乗客は確か私のほかには1人だけでした。まだ途中の3駅は営業していたはずですが、まったく記憶にありません。
帰りはかぶりつきで駅跡を確認します。踏切の先が築地橋。
久保町。
和歌山市、検車区の機能もあり構内は広い。
南海線普通と同じホームに発着。車止めを境に手前は7番線、奥が6番線と区別されています。自動改札になる前は柵の位置に和歌山港線用の改札があったそうです。
オマケは高架工事で仮線と仮ホームができつつある浜寺公園。赤い屋根が年代物の駅舎です。
有名な駅舎は曳家工法で少し移設され、駅カフェとして利用されています。これでこの日の予定の2/3くらいは終了。次の行動は「その2」で。
往路はバスタ新宿23:20発のグランドリーム15号。高速バスに乗るのは2019年9月以来で、予約の高速バスネットの会員登録が自然消滅していました。
10月28日に高速バスのダイヤ改正があり、東京~京阪神間の便はすべて新東名経由に変更、中央道経由の中央ドリーム号は廃止されました。これにより所要時間は約30分短縮され、途中の乗務員交代は「道の駅もっくる新城」に変更されています。写真は三ヶ日インターを降りた所にあった乗務員交代所。
バスは3割くらいの乗車率で予定時刻の7:01より15分ほど早着。眠気覚ましに定番の萩ノ茶屋で構えます。8時前で朝ラッシュのピークだけど、南海線は天下茶屋と新今宮での乗換えが多く、新今宮を過ぎれば混んでいるのは先頭と2両目くらいまでです。この時間でもまだ太陽が低くて側面はテカるし前面は潰れ気味。架線がえらく目立ちます。
これは2014年7月、今宮戎での撮影。いままでは夏の撮影が多かったので、季節による太陽の高さの違いを思い知らされました。
ラッシュを過ぎれば普通は1時間に4本、これに空港急行4本、ラピートとサザンが各2本の12本ですが、現在、ラピートは1時間ヘッドに減便されています。
本日の目的地は和歌山港線なので、適当に寄り道しながら南下します。住ノ江検車区ではラピートが暇を持て余していました。
高架になった羽衣。ここは高師浜線の分岐駅です。
その高師浜線は高架工事のため2年ほど運休。代行バスが運転されています。
高架の下にバスがいました。
電車のダイヤに合わせ、ほぼ20分ごとに運転されています。途中駅の伽羅橋を見てこようかと思ったけど、かったるそうなのでやめておきます。
高師浜線用だったホームは撤去作業中です。
高架の上りホームは高師浜線用のスペースが確保されています。しかし、2年間もバス代行で用が足りるなら、本当に線路が必要なのだろうか。まぁ、部外者がどうこういう立場ではありません。
普通で和歌山市まで乗りとおしました。時刻は12時、13:05発の和歌山港行きに乗るつもりだったけど、1時間も待つくらいなら歩いた方が早そうです。和歌山市~和歌山港間は2.8kmだから、廃止になった駅の跡を辿りながらでも1時間もあれば行けるでしょう。
和歌山港線は途中に久保町、築地橋、築港町の3駅がありましたが、2005年11月に廃止されています。久保町は紀ノ川大橋の下で、ホーム石積みの一部と柵が残っています。ここまでの0.8kmが南海電鉄の線路で、その先は和歌山県が第3種鉄道事業者として所有。南海電鉄が第2種鉄道事業者となっています。なのでここが社県分界点となるのですが、あたり一帯に目をこらしても分界を示す標識は見当たりません。
前の写真の右側が人道橋で、その柵越しに万歳したところ。左の水路は紀ノ川に並行している市堀川。鉄ピクの南海特集(2008年8月号)に載っていた写真もこのアングルです。しかし、電車が来るまで30分以上も待っているのは時間の無駄。諦めて先に進みます。
水軒川の支流?が市堀川に合流する所で、これの左で川を渡る道路橋が築地橋。駅は鉄橋を渡った向こうのようです。
鉄橋を渡り、カーブが終わるあたりにホーム石積みの一部と柵が残っていました。
だいぶホームらしい雰囲気が残っています。
そろそろ電車が来る頃、築地橋の上から待ち構えます。ここでサザンを撮りたいところだけど、明るい時間に走るサザンは10時台しかありません。
さらに歩くと線路端にこんな立て札がありました。名鉄の専売特許ではなかった。しかし、もう期限を過ぎています。
築港町は元の和歌山港だったそうで、過去の記事を読んでも位置がよくわかりません。当てずっぽうで開けた所から1枚撮ってみました。
水軒川を渡る港橋。道路は線路の下を潜り、そのまま行けば和歌山港駅前に出ます。
まず目に入るのがフェリーターミナルの建物。港は道路を隔てた右にあり、専用通路で結ばれています。フェリーは南海電鉄の系列会社なのに、この建物は駅と連絡していません。
駅入り口、なんでわざわざ目立たず、入りにくい位置になっているんだろうか。
行き止まりの島式ホームで、こちらの1番線はさらに水軒まで延びていました。
先ほどの電車が戻って来ました。13時台だけ2往復あるのです。
「めでたいでんしゃ」だそうで、吊り手が魚の形になっています。フェリーからの乗継ぎ客はなく、私のほかには「鉄」っぽいのと清掃員らしいオバサンの計3人でした。
ここで水軒の写真を特別公開。2000年1月、仕事絡みで9時台の1往復に乗るため、和歌山行きの夜行バスを利用しました。
左が海側で道路が並行しています。なんで道路に近い方にホームを作らなかったのだろうか。
これはトイレではない。発時刻や運賃表が掲示されています。
ベンチが2脚ありました。
駅名標、まだ駅ナンバーは導入されていない。この時の乗客は確か私のほかには1人だけでした。まだ途中の3駅は営業していたはずですが、まったく記憶にありません。
帰りはかぶりつきで駅跡を確認します。踏切の先が築地橋。
久保町。
和歌山市、検車区の機能もあり構内は広い。
南海線普通と同じホームに発着。車止めを境に手前は7番線、奥が6番線と区別されています。自動改札になる前は柵の位置に和歌山港線用の改札があったそうです。
オマケは高架工事で仮線と仮ホームができつつある浜寺公園。赤い屋根が年代物の駅舎です。
有名な駅舎は曳家工法で少し移設され、駅カフェとして利用されています。これでこの日の予定の2/3くらいは終了。次の行動は「その2」で。
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