モハメイドペーパーの      何が出てくるか2

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昔の写真

夏は海、昭和40年代の夏ダイヤ

 もうコロナの発症から10日は過ぎましたが、薬を飲むのを止めてから72時間は経過を見るということで、明日(12日)いっぱいまでは自宅待機となります。実は今日の昼前、連続運転している居間のクーラーから水漏れがあり、室外機の様子を見るため、ほんの僅かですが家の外に出ました。地面を踏みしめるのは2日以来です。

ということで、ブログのネタは昔の写真から探します。シグ鉄さんの真似ではないけどやはり夏といったら海。昭和40年代、庶民は夏になったらネコも杓子も海水浴に出かけました。東京近辺では沿線に海水浴場がある国鉄千葉鉄道管理局、小田急電鉄、京浜急行電鉄などが夏ダイヤを組み、割引切符なども発売して稼ぎまくっていたのです。断片的なネガをつなぎ合わせ、当時の夏がどんなだったかを振返ってみましょう。

1967-07 快速急行 P4253667
まずは私にとって一番身近な小田急。1967(昭和42)年7月の休日です。1600+1700の6連で、ほぼ終日、新宿~片瀬江ノ島間の快速急行に充当されます。昼前後の3時間くらいは入庫しますが、サボや運板は取付けたままでした。この頃は2600形も増備されていますが、1964年頃の休日ダイヤでは、新宿口の普通列車の9割くらいがHB車になっていました。

1967-07 夏ダイヤ時刻表 P4253668
停車中の向ヶ丘遊園の時刻表。ピークは1時間に6本の快速急行が運転され、これが毎時2本ずつの定期の急行と快速準急の間に割込むのです。

1966-08 ABF快速準急 P6291532
1966年8月の撮影。快速準急は高性能車(FM車)が所定のところ、休日に限ってABF車に置換えられる運用がありました。

1966-08 ビール電車 P6291520
これも1966年8月、SE車による納涼ビール電車「すずかぜ」です。ダイヤ上は特殊急行に分類され、新宿のほかに下北沢、経堂、成城学園前で客を拾い、あとは片瀬江ノ島まで無停車。往復分の金額で乗れました。

1966-08 ビール電車 P6291521
車内の喫茶カウンターには生ビールの樽が置かれています。この頃は暫定的な冷房化が行われ、右端に床置きのクーラーが見えています。

P6291554  66-07
次は京急で1966年7月。久里浜線が三浦海岸まで延長されましたが、まだ海水浴は逗子と二分していました。1000形はまだ1100代までだったから、海特には吊掛車も総動員されました。

P6291556
ちょっと見には1000形みたいだけど吊掛車。もちろん冷房なんてありません。

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専用のサボも入っていました。

P9011948
1970年8月。ヘッドマークのデザインが変わったし、車両も更新されてます。久里浜行きになっているのは午後の下りだからなのか。

P9011946  70-08
みうらビーチ号は川崎始発で、横浜から久里浜までは無停車。当然、クロスシートの600形ですが、まだ冷房化はされていません。

P9011954
京急~都営~京成の3者直通運転も行われました。京急に入った京成車は自社線に戻るまでに品川~逗子間の特急でこき使われてます。これについては京急車と同じ扱いになるので、車両の使用料を払う必要はないのだとか。同様に京成線内に入った京急車は京成車とみなされ、煮て食おうが焼いて食おうが構わないそうです。

P4253666  67-07
以下は国鉄で、1967年7月、新宿発千倉行きの臨時急行「うちうみ」です。定期の急行が内房、外房なので、それと区別するため「うちうみ」「そとうみ」と名乗っていました。キハ28もまだ非冷房です。

P4253684  67-08
1967年8月、海水浴臨ではなく中央本線の臨時急行「甲州」。ご覧とおり115系で、いわゆる遜色急行というやつです。

P4253687
臨時急行に115系を持っていかれたので、甲府行きの普通列車は101系が代走しています。8連が6連になり、トイレもないので評判が悪く、後に7連になりました。一部のクハにトイレを付けることも検討されたそうです。

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以下もしばらく1967年8月の撮影で、臨時急行に使用されているキハ45の所属を見ると中ヒロ。広島の車です。この頃は10月にダイヤ改正が行われることが多く、そこで増発などとなる分の車両を前倒しで7月頃に落成させ、所属区に送る前に千葉の夏臨で使っていました。急行用のキハ28もあり、私が見ただけでも秋アキ、仙ココ、名ミオ、四カマなどがありました。

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優等列車に気動車を持っていかれたので、昼間にも堂々と蒸機牽引の列車が走りました。両国の駅前広場には葦簀張りの待合スペースが設けられています。

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電車区間は通過となり、快速「かもめ」として特急並みのテールマークも付いています。客車はほとんどがオハ61で、オハ35なら当りです。

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これは内房線の大貫、模型仲間の別荘(普通の民家を借りていた)があった富津の最寄り駅です。快速「さざなみ」は先頭こそキハ45ですが、中間は10系のようです。

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急行「うちうみ」、1・2両目はキハ45、次はキハ26か。後3両はキハ28のようです。右の撮り鉄の左は一緒に行動していたエコーモデル店主です。

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オール10系の快速「さざなみ」。急行じゃないから文句はいえません。

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定期の「内房」。2両目はキハ26です。臨時急行で先頭だけキハ28、中間は10系、30系以外なんでもありの編成もありました。

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1970年8月の両国。ヘッドマークが小さくなり、うち、そとが仮名書きになっています。「うちうみ」「そとうみ」の愛称は廃止して臨時も「うち房」「そと房」となりました。113系は地下線対応の1000番代で、このほかに他線区からかき集めた113・115系の列車もありました。

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客車の急行も出現しました。1970年8月の勝浦です。水戸局あたりからの寄せ集めでほとんどがオハ35、たまに青く塗られたオハ61が紛れ込むこともあったようです。

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テールマークも付いています。

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この年に行川アイランド駅が開業しています。行楽用なので当初は急行だけしか止まらないという特殊な扱いでした。

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1976年8月、内房線、外房線とも電化され、気動車は支線のみになっています。臨時急行の代わりに快速が増発され、内房線は「青い海」と命名されました。

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外房線は「白い砂」です。この年ではないけど101系による快速もありました。

海水浴臨は東海道、横須賀線でも運転され、山スカによる中央線からの大磯行きなんていう列車もありました。旧型時代の横須賀線では付属編成を5両から3両に減車して、その分で列車1本を仕立てたりしています。品川や横浜では横須賀線から京浜東北線への乗換通路に臨時改札を設け、キセルの摘発に目を光らせていました。
千葉局の夏ダイヤには、時刻表編集時代に否応なく付き合わされました。巧妙といえば巧妙で、コンピュータのない時代によく考えたと思います。それについてはまた機会があれば触れてみます。

1965(昭和40)年5月の写真

 1965年、私は大学の2年生で、相変わらず小田急に往復2時間以上乗っていました。カメラはほぼ毎日持ち歩いていましたが、撮影のペースは月に36枚撮りフィルムを1本か2本くらい。1枚だけ撮って終わりという日もあり、1本のフィルムにいろいろなものが写っています。

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最初のコマは小田急の和泉多摩川駅。駅舎は上り線側にありました。手前の人物は赤の他人です。公衆電話のボックスはクリーム色に屋根が赤でした。

1965-05 和泉多摩川P5104176
和泉多摩川に到着するHB車の4連。まだHB車は3連が主体で4連は2運用くらいしかなかった。左からデハ1400-クハ1450+デハ1200-デハ1200で、この編成を組むためデハ1400とクハ1450が1両ずつ、後家とやもめになってしまいます。

P5104163
少し上流側から。2220とHE車の6連です。この頃は両岸に貸ボート屋が軒を並べていました。料金は1時間100円、しばらくして東京都側(左岸)が120円になり、神奈川県側も追随しました。

1965-05 登戸 P5104164
川向こうの登戸はホーム延伸工事の真っ最中。すでに8連は運転されているから、20m車への対応ですね。停止位置目標は2、3、4、6、8とありますが、2は1800の準急の名残でしょう。

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これは別の日、東急田園都市線の溝の口です。長津田延伸に向けての高架化工事が行われていて、仮駅になっています。

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反対側、これはホームがない留置線なのだろうか。

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南武線を跨ぐ桁が架かっています。電車は登戸行き、17m車が主体でぼつぼつ20m車が入り始めていました。

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津田山あたりだろと思います。左からクハ16-クモハ41+クモハ11-サハ17-モハ10-クハ79で、クモハ41はクモハ60かも知れません。クハ16はグロベンに1箇所抜けがあるので、元クロハだった800番代です。

P5104170
ED16が牽く貨物列車。石灰石ではない一般貨物もあったのですね。架線柱は南武鉄道のオリジナルか。

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これは中之島あたりでしょう。まだ登戸~立川間は単線で、部分的に複線化工事が始まっていました。左からクモハ60-サハ17-モハ10-クハ16。戦前型の3扉車は定着せず短期間で地方線区に転出。総武線、京浜東北線から追出された73系に置換えられました。

P5104172
元モハ50のクモハ11形400番代。線路脇は梨畑が広がっています。

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これも別の日、おそらく日曜でしょう。京王線新宿駅1番線のストップ寄りです。種別表示の運板は箱サボ式ではなく、1枚ずつ掛替える方式でした。フィルムはここで終わっているので、この特急に乗ったかどうかは不明。

南海べったりな2日間(その3)

 2日目(5日)、朝飯前に今宮戎で少し撮影してから難波の南海そばで朝食。JRで天王寺に出て天王寺支線の線路跡を確認します。2015年にレールが撤去されてからは大きな変化はありません。このあとは平野線の廃線跡を辿るため、地下鉄谷町線で平野に向かいます。

平野行き P4080490
1979(昭和54)年10月の天王寺駅前。手前のモ505は平野行きです。この時代はまだ南海の軌道線で、1年後の1980年12月1日に上町線と阪堺線は阪堺電気軌道として分離、平野線は11月26日限りで廃止となり、翌27日に地下鉄谷町線の天王寺~八尾南間が開業します。

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ここは西平野電停があった所。阿倍野からここまで平野線は阪神高速松原線の高架下を走っていました。厳密にいえば線路敷に高架の脚を建てたわけです。高速道路はカーブして南に、平野線は東に直進します。

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上の写真の木立の下に見えているのが、平野線の路線図を描いたモニュメント。飛田~阿倍野以外は専用軌道で、路面電車にしては駅間が長く、表定速度も高かったようです。

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線路跡は背戸口公園になって内環状線まで続いています。

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公園が終わったら内環状線(479号線)を横断。この道路を北(写真の右方向)に行けばJR関西本線の平野に出ます。

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内環状線を渡って100mくらいの所から西平野方向を見ています。信号の奥が背戸口公園。左に続いているビルは線路跡に建っています。

DSCF5910
上の写真に位置から振り返るとすぐ、線路跡を利用した遊歩道が始まります。

DSCF5907
電車道らしい雰囲気です。実際の線路は複線でした。

DSCF5898
途中の広場には平野の駅舎をイメージしたモニュメントがあり、奥の壁面にはモ205形のイラストと由来を書いたプレートがあります。このイラストは2代目で、初代はほぼサイドビュー、もっと黒っぽい色調でした。

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ここ々が終点。

DSCF5890
平野南海商店街の道路から見た所。

P6291304 1979-01
1979年1月に撮影。フィルムの最後のコマで、平野線の画像はこの1枚だけです。天王寺駅前あたりから乗ってきたはずですが、途中の記憶がほとんどありません。

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構内配線はこうなっていました。幅が狭いところをうまく使っています。奥が1番線だったかな。ホームで恵美須町行きと天王寺駅前行きを分けていたようです。

DSCF5853
駅前は少し寂れた平野東筋商店街が南北に続いていて、街路灯のプレートには今でも南海の文字が残っています。

DSCF5860
平野線が廃止されてから41年になるから、地元でも実際に乗ったという経験があるのは60代以上でしょう。それなのにいまだ南海の文字が残っているのはよほど南海に恩義を感じているのか、それとも書き換える手間を惜しんでいる(その金もない)だけなのか。
この通りの途中から東に延びる平野中央本通商店街は年代物の建物があったりで、街歩きファンには見逃せません。私も少し歩いて見ましたか、それは稿を改めて紹介します。  

昭和42年4月、名古屋付近の近鉄など

シグ鉄さんのブログで名古屋市の西側、八田のあたりが取上げられたので、私も古いネガを掘起こしてみました。54年前の昭和42(1967)年4月初め、飯田線から始まって名古屋に3日ほど滞在し、最後は中央西線経由で長電を見て東京に戻っています。撮影したネガは4本、今回は近鉄を中心にまとめてみました。

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随分田舎っぽい雰囲気ですが、近鉄で名古屋から4駅目の八田です。左端にしょぼいホームが見えています。この頃から待避可能な配線で、画面の右には数本の留置線もありました。車両は言わずと知れた2代目ビスタカー10100系で、両端とも貫通式のC編成です。

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普通列車は2連(というのは今でも同じ)。6226は旧伊勢電のモニ221形です。名古屋線の旧型は改軌で台車を取換えているので、クラシックな車体にシュリーレン台車のミスマッチがおもしろい。

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ク1700-モ1600に増結用のモ1650を加えた3連の準急。大阪線の1480系と同じモーターですが、1M方式でM-T編成を基本としています。

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ここは手前に国鉄関西本線が並走しています。非電化で単線だからとても本線とは思えません。列車本数は近鉄の1/10以下です。

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新エースカー2連の特急。名阪ノンストップじゃないかな。

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C57牽引の旅客列車。国鉄の八田駅はもう少し左にあり、発車したばかりだから煙とドレーンを吐いています。

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ビスタカーのB編成。

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気動車列車はここにも30系が進出していた。

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特急「あすか」。東和歌山~名古屋という運転区間のせいか人気がなく、この年の10月改正で廃止されています。

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旧伊勢電クハ461形で、幕板に飾り窓の縁取りが残っている。名古屋行きの急行が回送されてきて留置線に入り、このあとパンタを降ろしてしばらく昼寝となりました。

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名古屋線配置となっていた2200系。ほとんど3扉化されていましたが、3両目はまだ2扉です。このコマに限らず、まずモノクロでシャッターを切り、引きつけたところをカラーポジを入れたハーフ判で撮るということをしていました。そのためモノクロは早めにシャッターを切るので右2/3くらいが余白、車両は下手すればケツ切れという状態になっています。

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近鉄に続くコマがこれ。市電下之一色線の松葉です。市電で初めてワンマン化されたくらいの閑散路線ですが、地図で確認すると烏森駅のすぐ近くなんですね。まだ市電に対する知識はほとんどなく、たまたま駅を出たら市電があったから乗ってみたのだと思います。沿線は市電らしからぬ風景が展開していたはずなのに、途中でのスナップは1枚もありません。

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終点のひとつ手前の築三町で後続の51系統の市大病院行きに乗換えました。800形は1mあたり1トンを切る軽量車体、車体中央に置いた両軸モーターから乗越しカルダンで各台車の外側1軸を駆動するという珍しい伝導方式を採用していました。日本車輌に勤務し、JORCにも在籍していた方が設計した意欲作なのですが、乗り心地は最悪。加速はよいけどモーターの振動が車体に伝わり、少しスピードが出ると前後左右上下に満遍なく捻るように揺れました。恐らく車体の剛性不足がかなり影響していたのだろうと思います。設計したご本人はこの車両をどう評価していたのか、機会があったら聞いてみようと思っているうちに亡くなられてしまいました。

P4253510
これは場所がわかりません。熱田の近くだろうと思います。この2000形は名古屋市電だけではなく、日本の路面電車のなかでもトップ3に入る高性能車です。直角カルダン駆動、弾性車輪の採用により交差点のクロスを通過しても後ろを向いていれば気付かないほどで、無音電車の看板に偽りはありません。このあと、熱田(神宮前)に出て名鉄に乗っています。
*市電系統図と地図を対照すると、八熊通ではないかと思います。

P4253540
これは栄の地下街。ほんの数日前に地下鉄の路線が延長されています。

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開通を記念した模型コレクション展が行われていました。名古屋模型鉄道クラブ(NMRC)が協力していたのでしょう。

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地下鉄名城線にも乗っています。

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名古屋駅の西側はまだ開発途上でした。これは縦に細長いビルの8階にあった名古屋国鉄ホステルから撮影したもので、1部屋に2段ベッドが2組置かれた簡易宿泊施設でした。現在は0系の先頭あたりがあおなみ線の改札口になっています。

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西口の真ん中あたり、今は高速バスのターミナルがあります。当時、広場の隅っこでは夜になると怪しげなオジサン達が集まって焚き火していて、普通の人は足を向けたくない雰囲気でした。

北勢線、西桑名と阿下喜+おまけ

 先週後半から少し真面目に仕事をしているのでブログは放ったらかし。ついに昨日はアクセス数が300を割りました。まぁ、ネタは準備してあるんで、そろそろゲップが出るかもしれませんが、もう一度、近鉄北勢線にお付き合いください。

P5114362
1977(昭和52)年2月の西桑名です。現在の西桑名の手前で線路は右にカーブしていました。

P5114361
画面右が西桑名駅、阿下喜行きが発車したところです。後方に見える桑栄メイトビルは昼飯でお世話になりました。

P5114359
ホームはカーブにかかっています。到着列車は手前に止まり、客を降ろすと車庫に入って機回し、または別の編成が出てきて奥の位置に止まります。列車が据え付けられるまでは改札止めしていました。

P5114364
移設される駅は5月1日から使用開始になるようです。ということは、北大社の車庫の正式な使用開始も同日付けとなるのでしょう。

P5114367
逆光ですが駅正面も撮っていました。

P5114366
歩道橋からなのか、車庫を垣間見ています。西桑名の写真はこれだけです。

P5072893
一気に終点の阿下喜に飛びます。現在もここに保存されているモニ226が入換え中です。

P5072897
阿下喜発の時点では乗客も疎らです。

P5072903
昼下がりでも長編成がやってきました。

P5072925
藤原岳がバックに入る、絶好のロケーションです。

P5072929
モニ225の阿下喜寄りは事故復旧で2枚窓に改造されています。

P5072931
入換え作業中。バックのボーリング場は現存せず、「あじさいの里」という温泉施設になっているそうです。

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1991(平成3)年に訪れた阿下喜の駅舎。

P5156378
なんと、線路は1本だけになっていました。

P5156379
左の線路は架線がなく、保線用なのでしょう。現在はこの左の部分が軽便鉄道博物館になっています。

P7044902
1965(昭和40)年、七和。サ130形は将来の制御車化を想定して一端(写真の反対側)が運転台にできる構造になっていました。

P7044900
サ130形の台車。

P5156367
半固定編成になった中間は連結棒でした。

P5072909
朝に1本だけ見られた1M4T編成。トレーラーは3形式総出演です。

P7044912
西桑名にいた有蓋貨車。ナローの貨車はすべて9000代の形式でした。
内部線は車庫も取材していますが、まだフィルムをスキャンしていません。いずれ機会をみてお目にかけたいと思います。

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